メンバーの能力の選別

西閥クリエイトはブランド力を強化するという以外にも、メンバーがお互いの実力を知る為のコミュニケーションツールとしての役割もあります。というより、「西閥クリエイト」はメンバーの仲間意識の育成や組織マネジメント、メンバーの互いの実力をあぶり出す為に作ったコンテンツです。虹道楽の独立性の保持、オリジナル創作の支援等の目的はオマケというわけではありませんが、実はこれは後付けの副産物的なものです。

二次創作で必要な能力を引き出す為に、西閥の世界設定を行っています。どんな創作をしたいのか、どんな実力を持っているのかを伝える為に、創作で語って下さい。西閥の創作に取り組む事によって、創作の為に調査や勉強に取り組む人かどうか、センスがあるか無いか、他人の創作にやる気を持って取り組む意思があるのかどうかといった、教養や才能、人間性が透けるはずです。

また二次創作とは「特定の制限の中で自らの個性を演出する知的なスポーツ」であり、他人の創作した世界観への理解や、著作権者や原作ファンへの配慮が重要です。例え実力があったとしても、一方的に自分の作品を作る事しか出来ない人は、虹道楽の活動に向いていません。私達が作るのは「二次創作」です。

相手の性格や能力、趣向も分からずにチームを組めと言われても無理なので、それを計る為のツールとして西閥クリエイトを活用して下さい。特に「コミュ障だけど優秀」みたいな方は、天から切っ掛けが降ってこなければ他人と会話が成立しないはずです。その会話の切っ掛けとして当コンテンツを使って下さい。

それから設定集は一人でも作れるかもしれませんが、マクロな創作は他人とのコミュニケーション無しでは整合性を取る事が出来ません。虹道楽帝国では動画制作を共同で行ってもらいますが、それを成立させる為には創作における目標地点を共有する経験が必要です。一人でも作れてかつ誰でも作れるからこそ、共同創作の練習台として西閥を活用して下さい。やる事が無い人の為に、やる事を用意するという役割もあったりします

よって、一人で作られた設定は、例え優れていたとしても受け付けません。一人で作れるような内容であったとしても、他人のフィードバックを事前に受けて下さい。自分のアイディアを実現する際に、自分で記事を作るよりも、他人の創作に乗っかってアイディアを反映した方が都合が良い場合もあるはずです。

他人とコミュニケーションを取る場合は、西閥大会議板も是非ご利用下さい。やりたい事、話し合いたい話題がある人はトピックを立てて、他の人はそれに乗っかれば議論が成立するはずです。やりたい事がある人はフォーラムを利用してプロジェクトを立ち上げて、それ以外の方は面白そうなプロジェクトに参加するというイメージです。

記事を投稿して、そのコメント欄でやり取りを行うでも構いません。記事を活用する場合は、「西閥クリエイト:議論」のカテゴリを用意しています。まずはレスやコメントで議論を行い、議論後にレスやコメントを見返して、信頼出来そうな人がいれば個別にやり取りを行うというやり方を取ると、効率良く信頼出来る仲間を集める事が可能だと想定しています。

他人のプロフィールを見れば記事やコメント、フォーラムに関する他人の履歴を閲覧できるので、発言量が多ければ多いほど、それが自分の実力を公にする為のポートフォリオになるはずです。

西閥クリエイトに頼らず、「TRPGの脚本を当サイトに投稿して、その脚本を動画化したい人で集まって派閥を結成する」というやり方も否定はしないのですが、そのやり方だと人間関係や利権の調整でトラブルが発生したり、派閥のブランディングで弊害が生まれるはずです。短期的な成功を求めてせっかちになるよりも、これから何年も協力して活動を続けていけるような人間関係とコミュニティを構築する事に集中した方が、長期的に考えるとそちらの方が利益は大きくなります。

というより、安直に派閥を組んでしまうと、きっと要らない人員が出たら切りたくなってしまうはずです。邪魔な人員と活動し続けるのも嫌なはずですし、切ったらそれはそれで派閥内がギスギスし兼ねません。もしかしたら自分が切られる事もあるかもしれません。それが嫌なら、注意深く相手を吟味しましょう。

虹道楽が作ろうとしているのは、いわゆるティール組織そのものだと言っても過言ではないのですが、ティール組織が効果的に機能するためには、メンバーの成熟度、横のつながりが重要です。これからの時代は信用・信頼・つながりが個人にとっての資産となります。西閥の創作を通じて、お互いの足りない所を補い合えるような素晴らしい仲間を見つけて下さい。

ところで、低クオリティであろうと、手抜きであろうと、くだらない創作であろうと、ふざけても構いませんが、情熱が欠けた創作だけは、クリエイターとしてあるまじき行為です。センスがあって面白いなら何でも歓迎しますが、コンテンツを独占出来ないからといって、どうでもいい創作をするのだけは本気でやめて下さい。

能力の精査における要素

以下はオックスフォード大学の「2030年に必要とされるスキル」という論文の、知識・能力・スキルをランキング化したデータの上位20位までです。

1位: 戦略的学習力(Learning Strategies) ※スキル
2位: 心理学(Psychology) ※知識
3位: 指導力(Instructing)  ※スキル
4位: 社会的洞察力(Social Perceptiveness)  ※スキル
5位: 社会学・人類学(Sociology and Anthropology)  ※知識
6位: 教育学(Education and Training)  ※知識
7位: 協調性(Coordination)  ※スキル
8位: 独創性(Originality)  ※能力
9位: 発想の豊かさ(Fluency of Ideas) ※能力
10位: アクティブラーニング(Active Learning)  ※スキル

11位: 心理療法・カウンセリング(Therapy and Counseling)  ※知識
12位: 哲学・神学(Philosophy and Theology)  ※知識
13位: 伝達力(Speaking)  ※スキル
14位: サービス志向(Service Orientation)  ※スキル
15位: アクティブリスニング(Active Listening)  ※スキル
16位: 高度な問題解決力(Complex Problem Solving)  ※スキル
17位: オーラルエクスプレッション(Oral Expression) ※能力
18位: コミュニケーション学・メディア学(Communications and Media)  ※知識
19位: 活舌(Speech Clarity)  ※能力
20位: 判断力・意思決定力(Judgment and Decision Making)  ※スキル

これらのスキルは虹道楽のこれからの活動において、大いに役立ちます。もちろん画力や動画編集等の創作の為の技術も重要ですが、派閥を組む為に相手を見極めるうえで、これらの能力があるかどうかも考慮してください。

とはいえ人の魅力、活躍の為の武器となる要素はこれだけではありません。会話や創作活動を通じて相手に上記の能力が欠けていることが分かったとしても、それを超える何かしらの魅力を感じたのであれば、その自分の直観や考えを信じても良いかもしれません。

それ以外にも「仲が良いから」を理由にチームを組むのも、トラブルが起きる可能性が低くなるという意味では、これも合理的な選択肢の一つではないかと思っています。虹道楽帝国では組織が主権をもっており、あらゆる権利を派閥単位で強制的に共有させるので、自身の権利を共有しても問題ないと思えるような信頼できる相手と組むことは大事です。

どうすれば理想的な派閥を結成出来るのかは私にもイマイチ分からないので、「プロジェクト発信の場」で組織論を語りましょう※。

  • もっとも、派閥を法人としてみなして、会社と同じように派閥に報酬をプールさせて、給与払いの要領でメンバーに分配するやり方が一番分かりやすくて簡単な方法です。なんなら、派閥という名の株式会社を作ってしまうのもアリだと思います。色々とやり方はあるはずです。

究極の才能とは何か

人間の究極の才能※とは何なのか。

あくまで私の個人的な哲学なのですが、数字や論理で測る事が可能な、努力や教育によって鍛える事が可能な、再現性のある才能は、人間が持つ究極の才能にはなり得ないと私は思っています。その系統の才能は、AIや機械、パソコン、あるいは何百人がかりという数の暴力で圧倒されると、一人の力では勝ち目がありません。

AIや機械に負けることがない、多勢に無勢にならずに大人数を相手にしても負ける事がない、人間が持てる究極の才能とは「人格」です。

ちなみに「人格」とは、人の性格のことではありません。その程度なら努力で変える事は可能です。私が言う「人格」とは、「その人独自の哲学の源泉」のことを指します。もっとも視野を広げたり、視野を鮮明にするだけなら、学習によって後天的に鍛える事は可能です。しかし、誰から教わったわけでもなく身に付いた、その思考回路の根幹となる、その人独自の世界観を、これを模倣したり努力によって変える事は極めて困難です。

インプットに対するアウトプットの質は、人によって明確に大きな格差があります。記憶力は同等という前提条件で、同じ情報を吸収したとしても、これによって加工、生産された情報の質には、人によって大きな隔たりがあるのです。何故このような差が生まれるかというと、私達は生まれ持った能力や環境に大きな差があって、前提条件が異なれば、人によって見える景色、思考回路が違うのは当然だからです。例えば努力をしなくてもスポーツで活躍出来る人と、必死に努力してもスポーツで活躍出来ない人では、スポーツに関する哲学が同じになるわけがありません。

他の例だと、物語の楽しみ方が人によって異なると考えると分かりやすいかもしれません。主人公に感情移入して物語を楽しむ方もいれば、神の視点で物語を楽しむ方もいます。更に主人公に感情移入するとはいっても、主人公を自分自身のアバターとして捉える方もいれば、主人公を友達のようなものとして、あるいは赤の他人だとみなしている方もいて、このような視点の違いがあれば、物語から読み取れる情報も、感情的な印象も異なるわけです。そして、どの視点で物語を楽しむのが面白いと思うのかは人によって異なり、その好みを後天的な努力によって意識的に変える事は極めて困難です。

もちろんこれだけではなく、私達は教育者の発言内容を理解出来たとしても、教育者がその情報を習得、生産するまでに至った過程、即ち思考回路を知る事は不可能という理由も関係あります。私は様々なアイディアや哲学をぺらぺら喋っていますが、これは私が欲の無い聖人だから書いているわけではないです。この結論に至った「人格」を第三者が模倣する事は不可能だと踏んでおり、そもそも情報というのは将棋やチェスの駒のようなものであって、適格な場所に駒を打つ事が出来なければ、情報や技術があっても無意味だと思っているから書いているだけです。

他人の言っている事や、本で学んだ事の表層を模倣する事は誰でも可能です。しかし人によってその解釈は異なり、学んだ事を活かす努力が出来るかどうかも「人格」に左右されてしまいます。それから先程は「性格を努力で変える事は可能」と言いましたが、これも「人格」によります。例えば私の場合は、自身のアイデンティティを崩す利点を見出す事が出来ないため、ちょっとやそっとの事で性格を変える気は一切ありません。仮に性格を変えられたとして、それは「性格を変えた方が得をする」という、その人独自の哲学があるからこそ出来る事であり、性格が変わっても「人格」が変わっているわけでは無いのです。

「無能が勉強しても無能」と言われる事がありますが、その核たる原因はここにあると私は分析しています。もちろん秀才的な能力においても才能の格差があるのは当然の事ですが、大多数の人間はそこで差がついているわけではないと私は思っています。私は世に蔓延る無能の真実は、能力が無能というよりは、「人格」が環境に適合せずに無能という人がほとんどだと思っています。

だからこそ私は人を評価する時に、「その人はどのような目で世界を見ているのか」を重視し、これを人の評価基準の核としています。これを知る事が出来れば、経歴や表面上の演技というノイズに惑わされる事なく、情報量によって視野の広さや鮮明さを炙り出し、考え方によって人の性格を炙り出し、そして「人格」を透かす事が可能です。

ちなみに、定められた正解の存在しない「具体的な質問」を行うと、人の視点を引き出す事が可能です。面接の場における「ケース面接」に近いのですが、「人格」を見たいなら答えが無い質問の方が良いです。そして定められた制限の中で創作活動をさせるというのは、定められた正解の存在しない「具体的な質問」の一つの手法として合理的です。だから「西閥クリエイト」という取り組みを行います。

  • 私が言っているのはあくまで究極の才能であって、全ての環境で通用するような万能の才能ではありません。活躍する場所や求められている状況によって、適合する「人格」は異なります。「これさえあれば、全ての状況においてチート無双出来る!」なんて「人格」は存在しません。だからこそ私達は1人で努力するより、他人と協力してラクをした方が効率が良いわけです。

無能を選別するのはメンバー自身

「自律分散型自由組織社会主義」もとい「自由組織社会主義」とは、メンバー全員の合意の下で無能を淘汰する為のイデオロギーです。きっとメンバーの全員が「自分の派閥に無能も、自分の利益しか考えないクズも必要ない」と考えて仲間探しを行うはずなので、その結果として、このような方々が排除されるような環境が、虹道楽がわざわざ介入するまでもなく自然に形成されると推測しています。

ただし、人の相性によって相手が有能かどうかは変わります。何の能力を重視して、どのような人材を相手に求めているかはメンバーによって異なるはずです。例えば、高いコミュニケーション能力を持った人材を求めている人にとって、コミュ障は無能です。しかしそのコミュ障が絵の天才だった場合、絵が得意な人を求めている人にとって、そのコミュ障は是が非でも欲しい、優秀な人材となります。もしかしたらクリエイティブな能力ではない別の能力を求めている派閥もあるかもしれませんので、様々な可能性を探ってみては如何でしょうか。

お互いの能力が高くても、人間関係の相性が悪い場合、お互いの才能が死んで共倒れすることもあるはずです。能力が高くても、無能になってしまう事はあり得ます。実際に会社員は、無能な振る舞いをした方が得をするからこそ、能力は高いのに無能という方が沢山いるはずなので、人の能力が全てではありません。

能力が高いから有能なわけではなく、成果を出せるから有能なのです。優れた才能を持っているのに何もしない人は、それは才能が無いのと同じであり、優れた才能を持っている無能でしかありません。

ところで私は学歴は大事だと思っています。何故なら高学歴とは、常人と比べて並外れて頭が良い優秀な人か、あるいは本人にとって嫌な事でも他人の指示通りに素直に従って行動する能力がある人のどちらかである事の証明である為です。仮に後者だとしても、他人の言った事を理解出来るような、秀才的な能力が保障されるのは確実でしょう。更に学歴という権威を信仰している人も大量に存在するのですから、学歴信者の方を操る為にも学歴は役に立ちます。

とはいえ、高性能なパソコンをエロ動画を見る為に使うなら高性能である必要は無いように、秀でた頭脳の使い道が無いなら宝の持ち腐れです。また、このような肩書は数ある評価基準の一要素でしかなく、数字や論理で評価可能な秀才的な実力が才能の全てではありません。低スペックなパソコンでも美麗な絵を描く事は可能です。

もちろん学歴に限らず、例えば漫画家やイラストレーター、YouTuberとしての経歴や知名度もあくまで一要素です。もしかしたらそのスゴイ肩書を持った人は、指示が無ければ動けない無能だったり、他人を食い物にするような人間かもしれません。一方で大した肩書が無かったとしても、外れ値のような超優秀な人も存在します。肩書にとらわれて人を評価するのではなく、相手に相応の実力と人格が備わっているかどうか、自分の目で見極めて仲間を探して下さい。

You cannot copy content of this page